子曰(のたまわ)く、
徳の修まらざる、學の講(こう)ぜざる、
義を聞きて徙(うつ)る能(あた)わざる、
不善の改(あらた)むる能(あた)わざる、
是れ吾が憂いなり。
解 釈
先師が言われた
「徳が身につかないこと、学びが究められないこと、
正しい道を聞いても行う事ができないこと、
悪い行いを改めることができない事の四つが、
常に私の心をいためるものである」
(述而第七 仮名論語より)
通釈(伊與田 學)
これは孔子が何歳ごろの言葉かわかりませんが、学んでしかる後に足らざるを知るで、
孔子は常に自らを反省し、その至らなさに飽き足らなさを感じて、
一層修行に励まれたものと思われます。
「論語」は孔子の没後に編纂されたものですが、孔子の言葉をそのまま採用しております。
ここに切れば血の出る生ける孔子に限りない親しみを生ずるとともに、
「論語」が人間の書として不滅の光を放っているゆえんでもあります。
信徒からは観世音菩薩の化身と仰がれながら、
自ら凡夫と申された親鸞聖人の生きざまと相通ずるものがあります。
私も多感な青年時代、親鸞聖人に魅せられて
「南無阿弥陀仏」の称名に明け暮れしたのも、こんなところからでありました。
「論語に生き 論語を活かす」 伊與田 學 著より

学びが究められないこと、
正しい道を聞いても行う事ができないこと、
悪い行いを改めることができないこと
の四つが、常に私の心をいためるものである」
↑
なので、あたいは「論語」を学んでいるんだニャー
高野大造師の”書いて味わう人生応援歌「論語」”
http://rongo.jp/index.html
論語に学ぶ会 山形塾で学んでいまーす
http://rongo.jp/unei/unei00.html
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